「マイケル・ジャクソン愛と哀しみの真実」

番組の放送が終わったのでこの件についてちょっとだけ。
(宣伝したくないので放送前に書きませんでした。しかし今日みたいに他に競合が少ないとみている一般人多そうですが。)

私は見ていませんが、長年のMJファンにとって、相当不愉快な内容だったらしく、傷ついたり、怒り心頭で荒れていらっしゃる方もいるようです。


やっぱり、予想通りだったようです。


タイトルに「真実」ってついているものって本当にロクでもないというか、たぶん、「真実」=「センセーショナルだから見てね」の意味なんでしょうね。


本当は見て、書くべき事を書きたいところですが、下らないものに振り回されている時間もないのでやめておきます。念のために録画はしたんですけどね。予告で別の人がマイケルをやっているの見て気持ち悪くて(苦笑)、とても正視できないだろうと踏みました。
あと、悲しい事にジャクソン家で最も信頼出来ないジョーパパもね、予告でみましたね。

※もしも見た方で抗議して下さる方は、こちらから。
http://www.ntv.co.jp/staff/goiken/form.html


まあ、この話はこの辺で。
ちょっと、いまね、好きな随筆を覚えておかないといけないんですけど、これを思い出したんですね。

 大きな魂というのは、その内側に少年を飼っているかいないか、ということだと私は考えている。物事に不審を感ずる心、芸術への感動、星空の下にいるというだけで心が水色に溶けてゆくような衝動、気高さをもった異性や同性を見たときに、その気高さを小さな宝石のように結晶させて自分の心臓にピンのように篏入してみたいと思う気持ち、不条理を戦闘的に不条理と思える心、巨大な仮説が日常茶飯事にうかんでくる知的なダイナミズム、そして珍妙な人物が目の前にきたとき、すぐさま童話の世界にその人物を組み入れてしまう無制限な自由、さらには悪に対し、たとえ古箒の柄でも持って戦いにゆくけなげさ、リアクションに対する無配慮さとりりしさ。……ざっといえば少年とはそうしたものである。一つ忘れた。物事に無心に凝る心である。
 ともかくも、少年であることの量を多くもっているひとこそ学問をすればいい。その量が涸れてくれば管理職になればいい。

(『司馬遼太郎が考えたこと14』「高貴な少年」より)

これを読むと(まあ司馬さんは知人の方の事を書いておられるのですが)私には、(当然?)鮮やかに浮かびあがる人がいて、いっぺんに爽やかな気持になるのです。